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2月7日 多田銀銅山跡地を訪ねて

2014.02.22.14:55

厳しい朝の冷え込みの中、能勢電鉄日生中央駅10時に集合。
二組に分かれてバスに10分ほど乗り、銀山口で下車、20分ほど歩いて悠久の館の前の広場で合流した。

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歩いてくる途中、らせん階段の付近に銀山の出入り口に置かれた大阪口番所があったとのこと。
民家の石垣に鍰(からみ:銅吹きで出る残りかす)が使われていて興味を引いた。

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悠久の広場は明治時代に操業された「堀家製錬所」の跡地で、機械選鉱場と思われる場所の地上に残存していたレンガ構造物と、その前面に出土したレンガ敷遺構の復元が展示されていた。

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案内板のマップを見ながら前田先生から多田銀銅山の歴史と、これから見学する遺跡の説明を聞く。

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猪名川町教育委員会発行「多田銀銅山を知る」より抜粋
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多田銀銅山は北摂地域に広がる鉱山で、銀山地区を中心に栄えた。
最盛期には世帯3000、人口は15000人あったとされ、今も本町や新町など山里とは思われない地名が残り、かつての銀山町を物語っている。
開かれたのは天正年間に銀鉱脈が発見されてからで、天正16年(1588年)に公家の冷泉為満が大阪から銀山を見物に来たことが記録されている。
豊臣政権時には直轄鉱山となり、秀吉ゆかりの名のついた「台所間歩」や「瓢箪間歩」が残されており、栄えた様子がうかがえる。
江戸時代になると、銀を含む大鉱脈の発見で、幕府の直轄地として代官所が置かれ、寛文期には鉱山の最盛期を迎えたが、その後、銀の産出量は減少、銅が中心鉱物となる。
当時、多くの鉱山が「荒銅」として出荷する中、ここでは荒銅をさらに製錬して「鍰銅(抜銀銅)」として出荷していた。

猪名川町教育委員会発行「多田銀銅山を知る」より抜粋
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明治の後半には西洋の製錬技術を取り入れた「堀家製錬所」が建設されるが、明治41年に休山。
昭和19年から日本鉱業が操業を続けたが、昭和48年に閉山した。
悠久の館では銀山地区の歴史を紹介しており、職員の方の説明を聞きながら見学した。
江戸時代の銀山町を描いた3枚の絵図には、間歩や役所、町名などが記載されており、当時の様子を知ることが出来る。
その他、古文書や採掘された鉱石、鉱山道具などが展示されており、また鉱山に特有の植物(ヘビノネコザなど)があることを初めて知った。
代官所跡は悠久の館の対岸にあり、発掘調査から最末期の代官所跡であることが判明した。
川のそばの石垣には「大金」の刻字がある石も見え、「大金間歩」があったことが分かる。

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代官所の門を移築したという家の前を通り、銀山川の谷沿いの道を川上へと進み、金山彦神社と向かった。

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途中、川原の高台に鉱石を精錬した跡を見ることができ、その辺りには枯れていて分かりにくかったが、ヘビノネコザが多く見られた。
金山彦神社は鉱山の神を祀っており、現在の本殿は江戸時代(寛文年間)のもので、少し下った所に神社を守る神宮寺もあった。
本殿に上がる階段の横の石組の中に選鉱に使われた「かなめ石」(石うす)が利用されていた。

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ここで昼食をとり、午後からは青木間歩、日本鉱業多田鉱業所跡、多田銀銅山大露頭、秀吉ゆかりの台所間歩と瓢箪間歩を見学した。
鉱山地区には大小100以上の間歩があるが、唯一入れるのは周囲にアオキが茂っていたことから名がついた青木間歩だけで、坑道の中は照明もついていて、天井の鉱脈を見ることができた。
坑道の横の道を登って行くと手掘りの露頭掘りの跡もあった。

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さらに川筋の山肌には水抜通風穴跡が見られ、この辺りが鉱山であったことを感じさせる。
台所間歩や瓢箪間歩の近くには、小さな間歩の穴も見かけられた。
この辺りの鉱脈が地表に現われている大露頭の前で解散となった。

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時期的に寒い中での見学であったが日差しもあり、前田先生の案内で銀山地区の主な遺跡を楽しく探訪することができた。
昭和63年3月に建てられた銀山案内図の「案内板」に「・・・特に江戸時代には代官所が置かれ戸数は約3000戸を数える賑わいを見せていたが現在は20戸の静かな集落となり・・・」とあった。
絵図から銀山三千件と称された当時の賑わいと、現在の静かな集落との対比は鉱山の盛衰を思わせる。
鉱山を採掘した人々の中には免許を持つ専門の人もいたが、粉塵などのために30歳位の寿命の者が多くいたことを思うと、当時の労働の過酷さに思いをはせながらの見学でもあった。
校外授業は終了し解散となったが、先生の勧めもあり、ほぼ全員が「野中古墳と倭の五王の時代」の企画展が開催されている大阪大学総合学術博物館(石橋)に向かった。

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野中古墳は古市古墳群のなかにあって出土資料が質・量ともに充実した古墳であり、今回は保存修復された鉄製甲冑の展示がメインであった。
修復された甲冑の形が素晴らしく、又、その量の多さに驚いた。
予想以上に素晴らしい企画展であったと思う。
充実した校外学習の一日であった。

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わかものたち

Author:わかものたち
私達(高大)「.大阪の歴史遺産探訪科」で学んでいます。学んだ事や、どうすれば成果が上がるか?毎日をどう楽しく過ごしているかをブログの中でコミュニケーションをとりながら、すすめていきます。

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