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12月6日 富田林寺内町から美具久留御魂神社へ

2013.12.17.11:55

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師走とは思えない穏やかな日和の中、午前10時30分、近鉄富田林駅に集合、「じないまち
交流館」に向かった。

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交流館は富田林の寺内町を訪れる人々に町の歴史・文化について、さまざまな情報の提供を行うとともに、来訪者の休憩所を提供することなどを目的として、平成18年4月1日に開館した施設である。
ここからは班別にボランティアガイドの方がつき、探訪を開始した。

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寺内町は、蓮如による越前吉崎(1471年、文明3年)を始めとして、130年間にわたり建設
されたとされ、全国に多くあって、その定義は難しいようであるが「戦国期において浄土真宗などの寺院の境内地との名目で建設された都市であり、動乱の時代にふさわしく、濠・土居などで防御された囲郭都市で、寺院を中心に道路など整然たる都市計画をもつ自治都市で
ある。」ということのようである。
当地の概要を案内ガイド等から抜粋すると、

「富田林駅より約400m南に位置し、東西約400m南北350mあって、中世から続く寺内町の町割りを残しているとあります。
その起こりは、永禄年間(1558~69)初年頃、興正寺の証秀上人が富田の荒芝地を銭100貫文で所得し、近くの4ヶ所の庄屋株2人計8人に興正寺別院の建立と畑屋敷、町割りなどの建設を要請したのが始まりとされています。
町内は南北6筋、東西7町の道路で整然と区画、下水路を完備、周囲には竹藪のある土居をめぐらし、外部からの出入りは、一理山口、山中田坂、向田坂、西口の4ヶ所に限られていました。
早くから自治的都市特権を得て、町政の運営には年寄役となった8人があたりました。
ここは東高野街道、富田林街道などが交わる交通の要衝であり、石川流域で収穫される米、綿、菜種などの農作物と良質の水に恵まれたことから、酒造をはじめ米屋、布屋、紺屋、鍛冶屋、樽屋、桶屋、油屋、大工など多くの商人・職人のいたことが記録に残されています。
今も寺内町には往時を偲ばせる17世紀中頃から明治にかけての町屋が多く、旧杉山家住宅、仲村家住宅など個々に文化財として価値の高いものがあるとともに、町そのものが日本の優れた文化遺産として平成9年10月、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。」

富田林の寺内町が破壊されず長く保存された大きな原因は、織田信長と石山本願寺による石山合戦時に、本願寺・御坊側につかなかったことから、信長から「寺内之儀、不可有別条(じないのぎ、べつじょうあるべからず)」との書状を得ることにより、平穏を保った、とのことであった。
又、嘉永6年(1853年)に、当時24歳、若き日の吉田松陰が仲村家に、延べ約1か月にわたり滞在したとの説明は非常に興味深かった。
因みに日本でもう1か所、奈良県橿原市の今井町が重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
この歴史のある町で育ち、町を心から誇りに思うボランティアガイドの懇切丁寧な説明を受けながらタウンウォッチングを行った。

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敵の侵入を防ぐため町の周囲には環濠が設けられていたわけであるが、街中の道も直線的では無く「当て曲げの道」とよばれる様に交差部分では、道を少しずらす工夫がなされているのが特徴的であった。

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「じないまち展望広場」に立つと、遠く、二上山から竹内峠、葛城山、水越峠に金剛山が展望でき、寺内町としての立地の良さが理解出来た。

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交流館で昼食をとり、ここで一応解散となったが、大部分の方が次の目的地である「お亀石古墳」方面へ向かった。
途中の道路脇に、元は野球場のグランドとおぼしき草地があったが、これが「国史跡 新堂廃寺跡」であった。

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新堂廃寺跡は出土した瓦などから、四天王寺式伽藍配置をもつ飛鳥時代初期の寺院跡であることが明らかにされているが、北西には瓦を焼いた窯が見つかっている「オガンジ池」がある。

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又、その北西丘陵上にある「お亀石古墳」は露出した石棺の周囲に新堂廃寺で出土したものと同じ瓦が積まれており、被葬者が同寺院と密接な関係にあると考えられている。

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次に美具久留御魂神社へ向かった。
社伝によれば、崇神天皇の10年この地にしばしば大蛇が出没したので、天皇自ら視察して「これは大国主命の荒御魂によるものである」として大国主命を祀らせたのに始まるという。
主殿の裏は神南備山と呼ばれる神体山である。
下拝殿を参拝したあと、急な石段を登って上拝殿にも参拝した。
霞んで見ることは出来なかったが拝殿正面方向に二上山があるとのことであった。

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神社を後に貴志駅に移動し探訪終了、解散となった。
たった一駅間に過ぎなかったが、ちょっとしたハイキングなみの探訪で疲れもあったが、得ることの多い面白く楽しいものであったと思う。
特に寺内町を初めて訪れた方にとっては、その思いもひとしおであったに違いない。
皆さんお疲れ様でした。
























  
  














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わかものたち

Author:わかものたち
私達(高大)「.大阪の歴史遺産探訪科」で学んでいます。学んだ事や、どうすれば成果が上がるか?毎日をどう楽しく過ごしているかをブログの中でコミュニケーションをとりながら、すすめていきます。

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