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10月18日 史跡探訪 尼崎まち歩き

2013.11.11.13:30

10月18日、10時半、阪神尼崎駅に集合し、尼崎市立文化財収蔵庫、尼信会館、寺町、寺江亭跡を訪ねました。
今にも降り出しそうな空模様でしたが、なんとか雨には会わずに全行程を消化することが出来ました。
先ず、南東方向にある文化財収蔵庫に向かいました。
途中、尼崎城の城壁を模した白壁のある図書館を通り過ぎ、江戸時代前期の国学者で、万葉集の全注釈書「万葉代匠記」等で著名な「契沖の碑」を見て、旧城内中学校を使用している文化財収蔵庫に着きました。
ここは、尼崎城の本丸のあった場所と推定されるところだそうです。
収蔵庫正門の正面には三の丸公園と名付けられた公園もありました。

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ここでは収蔵庫で研究に携わっておられる室谷学芸員から、尼崎に由来する縄文期から近世に至るまでの文化財の説明を詳しく受けました。
始めに通された部屋が、昭和39年を舞台にした映画「ALWAYS 3丁目の夕日’64」のロケに使われた音楽室だということでした。
展示品は尼崎の地域独自のものばかりですが、日本の歴史を知るうえでの貴重な資料も多くありました。
特に2003年に東園田遺跡から発見された519個の「イイダコつぼ」の中からヘラで描かれたとみられるシカの絵入りのものが一つ見つかり、2009年3月の新聞発表で大変話題になりました。
その他、田能遺跡、水堂遺跡、園田大塚山遺跡、猪名寺廃寺、大物遺跡などは、あらためて訪ねる機会を持てれば良いなと感じました。
又、尼崎城を中心とした城下町のジオラマを見ていると、その規模の大きさとを驚くと共に、当時の尼崎城の重要性がよく分かりました。
収蔵庫の空き部屋や音楽室を昼食場所に提供していただき、落ち着いて食事ができました。

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午後1時、尼信会館や寺町を目指し、収蔵庫近くの「旧尼崎警察署」で開催されている「銭湯王国展」に興味を持ちつつ、阪神電車の南側を西の方へ移動しました。
途中、尼崎市役所開明庁舎の外壁の機銃掃射の弾痕跡を見ました。
戦争の悲惨な名残ですが、私には特に保存処置を施している様には見えず、このままでは風化してしまうのでは、と少し気掛かりな思いもしました。

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尼信会館では、先ず、「物語絵と美人画ー尼崎コレクションの近世絵画展」を収蔵庫の
伏屋学芸員の洒脱な説明を受けながら鑑賞しました。
尼崎に関わりがあった、江戸時代前期の狩野派の女流画家である清原雪信の物語絵と美人画は、精緻な筆づかいと彩色が見所でした。
併せて展示されていた月岡雪鼎の上方の浮世絵は、江戸風とは違った表情豊かな美人図でした。
常設展示は、尼崎藩に伝わる絵図、武具などと、幕末から明治の貨幣と紙幣でした。
江戸時代の尼崎が大坂の西の守りだったことや尼崎城の様子の理解が進みました。
幕末以来の貨幣や紙幣では懐かしさから話に花が咲いていました。

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尼信会館からすぐ北に位置する寺町に行きました。
天候が怪しくなってきて、寺江亭跡へ急ぐため、寺町では入り口部分の法華宗大本山で本能寺と比肩される本興寺と、戦国武将で豊臣秀吉によって切腹を命じられた佐々成政の墓碑がある法園寺を訪ねて尼崎駅に戻りました。

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時間があれば、剣尾山を遥拝する灯炉堂に由来する古刹である月峰山大覚寺と、本堂と多宝塔が重要文化財である長園寺は改めて訪ねたい寺だと思いました。
尼崎から阪神電車で杭瀬まで行き、そこから木村化工機、塩野義製薬の工場沿いを北に向かい、寺江亭跡の碑を見ました。
寺江亭は平安時代の末、平氏政権の有力者の五条大納言藤原邦綱が築いた別邸で、寺江山荘とも呼ばれていました。
厳島行幸の高倉上皇や福原遷都の安徳天皇他多くの貴人が訪れ、川から直接邸内へ船に乗ったまま入ることが出来る寝殿造りの建物であったと当時の記録に記されています。
今でこそ神崎川(左門殿川)は築堤で囲われて何の風情もありませんが、往時は河原に葦原が広がる風光明媚なところだったと思わせるところです。
ほど近いところで堤防の上に上がると、曇り空にもかかわらず、遥かに剣尾山を望めました。
なるほど長洲の浜から真北にある海からの目印だと確認できました。

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これで全行程を無事に終えて解散し、三々五々に杭瀬方面に帰って行きました。
尼崎は大阪市のすぐ隣の市ながら、馴染みの薄い町だったようで、あらためて旧跡の多い、由緒のある町であることを知り、この近代的なビルが立ち並ぶ町を見直した、という感想を多くの方が持たれたのではないかと思います。
それと、前田先生の丁寧な説明に感謝します。
また、先生の健脚ぶりには驚きです。
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わかものたち

Author:わかものたち
私達(高大)「.大阪の歴史遺産探訪科」で学んでいます。学んだ事や、どうすれば成果が上がるか?毎日をどう楽しく過ごしているかをブログの中でコミュニケーションをとりながら、すすめていきます。

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