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12月13日 茨木市立キリシタン遺物史料館を訪ねて

2013.12.19.11:00

今年最後の校外学習で茨木市北部の千堤寺にある「茨木市立キリシタン遺物史料館」を訪ねた。
気温3℃という冷たい雨の中、阪急茨木市駅に9時30分集合。
貸切バスで山間部の千堤寺へと向かった。
茨木市駅からは約12km、乗用車なら30分程度のこの地域が、思いのほか山深く、昔なら隠れキリシタンが住むに相応しい地域であることがよく理解できた。
小雨降る中、千堤寺口バス停付近で前田先生から、この辺りのキリシタン遺跡の説明をを受け、さらに山林の中の山道を15分ほど歩いてキリシタン遺物史料館に到着したが、建物は思いのほかこじんまりとしていた。

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史料館には千堤寺と下音羽地区から発見された絵画、彫刻、書籍、墓碑など多くのキリシタン遺物が展示されている。
館内のビデオで、茨木のキリスト教伝播とキリシタン遺物の発見秘話や遺物について詳しく知ることができた。
1549年フランシスコ・ザビエルによって伝えられたキリスト教は諸大名や支配下の民衆に大きな影響を与えた。
キリシタン大名の高山右近が高槻城主になると、この辺りもその領地となり、領民の多くが信者となった。

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豊臣秀吉や徳川家康によるキリスト教禁制後も、信者たちはここ千堤寺や下音羽の山中に隠れ、ひっそりとキリスト教を信仰し、禁教時代の遺物を守り伝えてきた。
明治6年禁止令が解かれても、取締りの厳しさを忘れることができず、遺物は隠されていたが、大正8年藤沢大超氏が千堤寺の山中でキリシタン墓碑(上野マリア墓碑)を発見し、隠れキリシタンの里であることがわかった。
これがきっかけとなり、付近の家々からキリシタン遺物が多く発見された。

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主な展示遺物は史料館向かいの東家の「あけずの櫃」から発見され、歴史教科書にも掲載されている「聖フランシスコ・ザビエル画像」(重要文化財、現神戸市博物館蔵)、「マリア十五玄義図」、「キリスト磔刑木像と銅筒」、銅版画の「天使讃仰図」、千堤寺で発見された3基の墓碑と拓本、金属製のメダル(メダイ)、口伝えのオラショ(マリア祈祷文)などで、これら多くの遺物は当時のキリシタン文化を研究する上で大変貴重なものである。
禁教令が出た後も明治まで隠れキリシタンとして信仰を守り、発覚を恐れて当主だけに伝え、密かに守られてきたキリシタン遺物は世界的に見ても貴重なものがあり、信仰に生きた人々の思いが強く感じられた。

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佐保カララの墓碑が見つかったクルス山は最近新名神の工事で半分崩され、日本の原風景を残す山間の里も変わりつつあるようだが、千堤寺口バス停付近には棚田が広がり、のどかな里山の景色を見ることができ、いつまでも残していきたいと思った。

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当日は冷雨降る寒い時期の見学だったので、残念ながら史料館のみの見学となり、クルス山の見学は中止となったが、付近にはキリシタン自然歩道など、ハイキングコースもあるとのことで、季節の良い頃に又遺跡を訪ねて、下音羽の高雲寺にも足をのばしてみたいと思う。
解散後は茨木市駅までバスで戻り、駅周辺や大阪で忘年会となった班も多かったようだ。









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12月10日 平成25年度 高大祭

2013.12.18.16:10

文化祭のクラステーマを「最古の官道 難波大道~竹内街道を歩く」と決め、活動をスタート
させたのは、この夏であった。

出典 不明
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出典 大阪府ホームページ 歴史街道 ウォーキングマップ
あ101img007  い102img008  う103img009  え104img010

班ごとに調査範囲を区割りし、暑い盛りの中を、各班が往時を偲びながら実際に歩いて資料収集に努めた。
12月10日は、その成果発表の場であるが、時の経つのは早いものである。
校外学習が多くあり、なかなか教室で資料を纏められないなか、日数のみが増えていった。
そして何とか発表に間に合わせるべく頑張ってきたが、完成資料の運搬等の問題もあって、最終の仕上げは現地会場で行うことになった。
9時開場の時間前には多くのクラスメートがメイシアター玄関前に集結し、開場と同時に所定の展示場所に迅速に移動、掲示物の仕上げを図りつつ、パネル展示や展示物の陳列を行っていった。
事前の準備が周到であったことと、皆の協力があって、10時の開会式の前には無事完成した。
全員がホッとした瞬間であったと思う。
掲示時間中、ブースには多くの人の訪問があり、熱心に見て頂いた。
食い入るように見ている姿を見ると、夏真っ盛りの町歩きの苦しさ、しんどさが、少しは報われた気持ちになった人も多いと思う。
他のブースを見学したり、演芸を楽しんだりしたが、いずれの科も素晴らしい出来栄えや内容であった。
充実した一日であったと思う。
多くの労力を要して製作した、素晴らしい展示物も、あっという間に片づけられ、宴の後、熱気は消え、閑散とした会場に戻った。
儚い時間、何か「もったいない」思いを残して帰途についた。

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12月6日 富田林寺内町から美具久留御魂神社へ

2013.12.17.11:55

あいimg006

師走とは思えない穏やかな日和の中、午前10時30分、近鉄富田林駅に集合、「じないまち
交流館」に向かった。

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交流館は富田林の寺内町を訪れる人々に町の歴史・文化について、さまざまな情報の提供を行うとともに、来訪者の休憩所を提供することなどを目的として、平成18年4月1日に開館した施設である。
ここからは班別にボランティアガイドの方がつき、探訪を開始した。

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寺内町は、蓮如による越前吉崎(1471年、文明3年)を始めとして、130年間にわたり建設
されたとされ、全国に多くあって、その定義は難しいようであるが「戦国期において浄土真宗などの寺院の境内地との名目で建設された都市であり、動乱の時代にふさわしく、濠・土居などで防御された囲郭都市で、寺院を中心に道路など整然たる都市計画をもつ自治都市で
ある。」ということのようである。
当地の概要を案内ガイド等から抜粋すると、

「富田林駅より約400m南に位置し、東西約400m南北350mあって、中世から続く寺内町の町割りを残しているとあります。
その起こりは、永禄年間(1558~69)初年頃、興正寺の証秀上人が富田の荒芝地を銭100貫文で所得し、近くの4ヶ所の庄屋株2人計8人に興正寺別院の建立と畑屋敷、町割りなどの建設を要請したのが始まりとされています。
町内は南北6筋、東西7町の道路で整然と区画、下水路を完備、周囲には竹藪のある土居をめぐらし、外部からの出入りは、一理山口、山中田坂、向田坂、西口の4ヶ所に限られていました。
早くから自治的都市特権を得て、町政の運営には年寄役となった8人があたりました。
ここは東高野街道、富田林街道などが交わる交通の要衝であり、石川流域で収穫される米、綿、菜種などの農作物と良質の水に恵まれたことから、酒造をはじめ米屋、布屋、紺屋、鍛冶屋、樽屋、桶屋、油屋、大工など多くの商人・職人のいたことが記録に残されています。
今も寺内町には往時を偲ばせる17世紀中頃から明治にかけての町屋が多く、旧杉山家住宅、仲村家住宅など個々に文化財として価値の高いものがあるとともに、町そのものが日本の優れた文化遺産として平成9年10月、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。」

富田林の寺内町が破壊されず長く保存された大きな原因は、織田信長と石山本願寺による石山合戦時に、本願寺・御坊側につかなかったことから、信長から「寺内之儀、不可有別条(じないのぎ、べつじょうあるべからず)」との書状を得ることにより、平穏を保った、とのことであった。
又、嘉永6年(1853年)に、当時24歳、若き日の吉田松陰が仲村家に、延べ約1か月にわたり滞在したとの説明は非常に興味深かった。
因みに日本でもう1か所、奈良県橿原市の今井町が重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
この歴史のある町で育ち、町を心から誇りに思うボランティアガイドの懇切丁寧な説明を受けながらタウンウォッチングを行った。

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敵の侵入を防ぐため町の周囲には環濠が設けられていたわけであるが、街中の道も直線的では無く「当て曲げの道」とよばれる様に交差部分では、道を少しずらす工夫がなされているのが特徴的であった。

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「じないまち展望広場」に立つと、遠く、二上山から竹内峠、葛城山、水越峠に金剛山が展望でき、寺内町としての立地の良さが理解出来た。

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交流館で昼食をとり、ここで一応解散となったが、大部分の方が次の目的地である「お亀石古墳」方面へ向かった。
途中の道路脇に、元は野球場のグランドとおぼしき草地があったが、これが「国史跡 新堂廃寺跡」であった。

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新堂廃寺跡は出土した瓦などから、四天王寺式伽藍配置をもつ飛鳥時代初期の寺院跡であることが明らかにされているが、北西には瓦を焼いた窯が見つかっている「オガンジ池」がある。

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又、その北西丘陵上にある「お亀石古墳」は露出した石棺の周囲に新堂廃寺で出土したものと同じ瓦が積まれており、被葬者が同寺院と密接な関係にあると考えられている。

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次に美具久留御魂神社へ向かった。
社伝によれば、崇神天皇の10年この地にしばしば大蛇が出没したので、天皇自ら視察して「これは大国主命の荒御魂によるものである」として大国主命を祀らせたのに始まるという。
主殿の裏は神南備山と呼ばれる神体山である。
下拝殿を参拝したあと、急な石段を登って上拝殿にも参拝した。
霞んで見ることは出来なかったが拝殿正面方向に二上山があるとのことであった。

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神社を後に貴志駅に移動し探訪終了、解散となった。
たった一駅間に過ぎなかったが、ちょっとしたハイキングなみの探訪で疲れもあったが、得ることの多い面白く楽しいものであったと思う。
特に寺内町を初めて訪れた方にとっては、その思いもひとしおであったに違いない。
皆さんお疲れ様でした。
























  
  














大坂の歴史遺産探訪科 秋の遠足

2013.12.03.23:59

11月15日、あいにくの小雨の中、秋の遠足が実施された。
午前10時、JR摂津富田駅に集合した一行は、駅前からチャーターしたバスに乗り込み新池遺跡へと向かった。
新池遺跡は5~6世紀の遺跡で、18の埴輪窯と工房・工人集落からなる全国最大級の埴輪工場跡で、1988年から本格調査が始まり、1994年に埴輪工場公園として整備された。
小雨の降る中、二班に分かれて高槻市の史跡ボランティアの方の丁寧な説明と案内を受け、全員が十分理解することが出来た。

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新池遺跡の後、同じガイドの方の案内で、番山古墳→八幡神社→闘鶏山古墳(未盗掘の古墳であるが、近くでの見学は出来ず、写真による説明のみ。発掘予定は無いが、もし発掘されれば大きな成果が期待される古墳とのことであっあ。)→闘鶏野神社→阿武野小学校(130年の歴史を持つ古い小学校)→前塚古墳(墳丘が削られてしまった惨めな古墳)等の説明を受けながら今城塚古代歴史館へ向かった。

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各班別に親睦会を兼ねた昼食をとり、午後は各班別にボランティアガイドの方について頂いて、今城塚古代歴史館と遠足のメーンである今城塚古墳の見学を行った。

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今城塚古代歴史館は古墳公園に隣接しており、館内では三島古墳群の概要をはじめ今城塚古墳の発掘で判明した古墳づくりのさまざまな工夫を実物大のジオラマ模型等で解説している。

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実物の埴輪や豊富な出土品も展示されており、歴史体験と学習の場となっている。

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更に「特別展 発掘された日本列島 2013」の企画展示も実施されており、非常に良いタイミングの見学であった。
貴重な埴輪が多数展示されていたが、特に仁徳天皇陵古墳から発掘された「人物埴輪(女子頭部)と馬型埴輪」は圧巻であった。

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今城塚古墳は古墳公園として整備されているが、古墳時代後期の6世紀前半に築造された前方後円墳で、墳丘の長さ160m、二重の濠をめぐらし、全体の大きさは340m×360mにもなる淀川流域最大規模の古墳である。
被葬者は継体天皇とするのが学会の定説になっており、午前中に見学した新池遺跡で造られた埴輪を含めて、6000本もの埴輪が並べられていたということである。

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古墳の中に足を踏み入れ後円墳の中心地と記された場所に立つと何か不思議な感慨があった。

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埴輪祭祀場も再現され、様々な形の埴輪が並べられており、日本で唯一、足を踏み入れられる大王級の古墳として知られている。

34PB150086_01.jpg  35PB150087_01.jpg  36PB150088_01.jpg  付近のb古墳マップ

午後には雨も上がったものの、午前中に降り続いた雨のために少し肌寒い遠足ではあったが、ボランティアガイドの方々の丁寧な案内、説明で、古代のロマンの一端に触れることが出来た、楽しい遠足であった。









  













  











プロフィール

わかものたち

Author:わかものたち
私達(高大)「.大阪の歴史遺産探訪科」で学んでいます。学んだ事や、どうすれば成果が上がるか?毎日をどう楽しく過ごしているかをブログの中でコミュニケーションをとりながら、すすめていきます。

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