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3月7日 学習成果発表会

2014.03.08.22:50

最後の授業を2月28日に終え、一年間の学習成果を発表する日が来た。
テーマは「高大祭」でパネル展示された「難波大道から竹内街道を歩く」である。
班ごとに展示された資料を使用し、詳細な発表がなされた。
自班担当の内容は熟知していても、他班の資料については「ただパネルを見た」だけに終わっており、今回の各班の丁寧な説明で全般を通しての理解が出来たと思う。
更に、高大祭以降に、あらためて同地域の探訪を行い、追加資料を提示される班もあって、盛り上がった発表会となった。
又、この街道歩きがきっかけとなり、班の纏まりが良くなり親睦が深まった、との話があったが、全ての班に共通したことであったと思う。
前田先生からは「テーマに対する取り組みが良く、私の授業をよく反映した内容で嬉しい」とのお褒めの講評を頂いた。
又、「町名」や「道」、「地形」に興味を持ち続け、今後は更に奥へ進んで欲しいとのアドバイスを頂いた。
得た知識の大きさ深さに個人差はあっても、楽しく充実した一年であった思いに差は無いであろう。

12時半よりKKRホテル大阪「星華の間」に会場を移し、前田、長山両先生、及び伊藤、辻、西島の3名のCDの方々にもご出席頂き、懇親会が開催された。
ビンゴゲームや3班高木班長の相撲甚句「竹内街道千四百年」もあって大いに盛り上がり、盛況裏に終了した。

前田先生、長山先生、ご指導ありがとうございました。

伊藤さん、辻さん、西島さんCDとしてのアシストありがとうございました。

大阪歴史遺産探訪科各位
今回をもって当科のブログを終了させて頂きます。
閲覧ありがとうございました。
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2月21日社会への参加活動「天満天神繁昌亭」

2014.03.01.21:39

2月21日、社会への参加活動の日です。
この冬、最後の寒さという寒い一日でした。
12時半、48名の生徒の皆さん、3名のCDの方々、計51名で天満天神繁昌亭の昼席公演を鑑賞しました。
約3時間の公演でしたが、舞台と客席が近く、大劇場やテレビでは味わえない一体感があって熱気溢れる舞台でした。
立ち見客が出るほどの盛況であったこともあり、演者の熱演ぶりも見事だったと思います。
約、3時間、楽しく愉快な時間を過ごしました。
久しぶりに生の古典文化を楽しんだわけですが、再訪したいと思われた方も多いのではないでしょうか。

№1繁昌亭0003  №2繁昌亭0007  №3繁昌亭0011  №4繁昌亭0013

№5繁昌亭0015  №6繁昌亭0017  №7繁昌亭0020  №8繁昌亭0035

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出し物は
・桂三幸:桂三枝(現在の6代目文枝)の弟子で、三枝の創作落語「お忘れ物承り所」の一席
・笑福亭鉄瓶:鶴瓶の弟子。読みはてっぺい。どこにいっても「てつびん」と呼ばれるとのこと。古典落語「道具屋」の一席
・桂米左:桂米朝の弟子。古典落語「ふぐ鍋」の一席
・真田豊美:マジック「リング・ハンカチ・トランプ」古典的な演目であったが素晴らしい。
・桂枝光:先代文枝の弟子であるが身振り、手振りで盛り上がり、大いに笑わせる。亡くなった桂枝雀を彷彿させる。 「酒の粕」の一席
・桂梅団治:桂春団治の弟子。大阪西町奉行、佐々木信濃守と桶屋のせがれ四郎吉とのやり取りを描いた「佐々木裁き」の一席
・虹友美:三味線でお客さんとナツメロを合唱。河内音頭、ベンチャーズを演奏、太棹の津軽三味線も披露
・桂文福:先代文枝の弟子。新作落語、相撲甚句、オリンピックの新ネタ甚句
・桂福矢:桂福團治の弟子。古典落語「子ほめ」の一席
・桂きん枝:繁昌亭10万人目の入場者の逸話と古典落語「孝行糖」の一席

隣の天満宮では合格祈願のお参りをしている受験生の姿や、恒例の盆梅展、そして日本全国の梅酒が集まり開催されている天満天神梅酒大会のイベントがあり、沢山の人出で賑わっていました。

№9繁昌亭0024  №10繁昌亭0025  №11繁昌亭0023  №12繁昌亭0027

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解散後、班ごとのミーティング(懇親会)を行うべく、南北2.6㎞、直線では日本一長いと言われる天神橋筋商店街の散策が始まりました。
各班とも繁昌亭の名残をとどめた楽しいミーティングが開催されたことと思います。












2月7日 多田銀銅山跡地を訪ねて

2014.02.22.14:55

厳しい朝の冷え込みの中、能勢電鉄日生中央駅10時に集合。
二組に分かれてバスに10分ほど乗り、銀山口で下車、20分ほど歩いて悠久の館の前の広場で合流した。

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歩いてくる途中、らせん階段の付近に銀山の出入り口に置かれた大阪口番所があったとのこと。
民家の石垣に鍰(からみ:銅吹きで出る残りかす)が使われていて興味を引いた。

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悠久の広場は明治時代に操業された「堀家製錬所」の跡地で、機械選鉱場と思われる場所の地上に残存していたレンガ構造物と、その前面に出土したレンガ敷遺構の復元が展示されていた。

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案内板のマップを見ながら前田先生から多田銀銅山の歴史と、これから見学する遺跡の説明を聞く。

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猪名川町教育委員会発行「多田銀銅山を知る」より抜粋
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多田銀銅山は北摂地域に広がる鉱山で、銀山地区を中心に栄えた。
最盛期には世帯3000、人口は15000人あったとされ、今も本町や新町など山里とは思われない地名が残り、かつての銀山町を物語っている。
開かれたのは天正年間に銀鉱脈が発見されてからで、天正16年(1588年)に公家の冷泉為満が大阪から銀山を見物に来たことが記録されている。
豊臣政権時には直轄鉱山となり、秀吉ゆかりの名のついた「台所間歩」や「瓢箪間歩」が残されており、栄えた様子がうかがえる。
江戸時代になると、銀を含む大鉱脈の発見で、幕府の直轄地として代官所が置かれ、寛文期には鉱山の最盛期を迎えたが、その後、銀の産出量は減少、銅が中心鉱物となる。
当時、多くの鉱山が「荒銅」として出荷する中、ここでは荒銅をさらに製錬して「鍰銅(抜銀銅)」として出荷していた。

猪名川町教育委員会発行「多田銀銅山を知る」より抜粋
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明治の後半には西洋の製錬技術を取り入れた「堀家製錬所」が建設されるが、明治41年に休山。
昭和19年から日本鉱業が操業を続けたが、昭和48年に閉山した。
悠久の館では銀山地区の歴史を紹介しており、職員の方の説明を聞きながら見学した。
江戸時代の銀山町を描いた3枚の絵図には、間歩や役所、町名などが記載されており、当時の様子を知ることが出来る。
その他、古文書や採掘された鉱石、鉱山道具などが展示されており、また鉱山に特有の植物(ヘビノネコザなど)があることを初めて知った。
代官所跡は悠久の館の対岸にあり、発掘調査から最末期の代官所跡であることが判明した。
川のそばの石垣には「大金」の刻字がある石も見え、「大金間歩」があったことが分かる。

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代官所の門を移築したという家の前を通り、銀山川の谷沿いの道を川上へと進み、金山彦神社と向かった。

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途中、川原の高台に鉱石を精錬した跡を見ることができ、その辺りには枯れていて分かりにくかったが、ヘビノネコザが多く見られた。
金山彦神社は鉱山の神を祀っており、現在の本殿は江戸時代(寛文年間)のもので、少し下った所に神社を守る神宮寺もあった。
本殿に上がる階段の横の石組の中に選鉱に使われた「かなめ石」(石うす)が利用されていた。

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ここで昼食をとり、午後からは青木間歩、日本鉱業多田鉱業所跡、多田銀銅山大露頭、秀吉ゆかりの台所間歩と瓢箪間歩を見学した。
鉱山地区には大小100以上の間歩があるが、唯一入れるのは周囲にアオキが茂っていたことから名がついた青木間歩だけで、坑道の中は照明もついていて、天井の鉱脈を見ることができた。
坑道の横の道を登って行くと手掘りの露頭掘りの跡もあった。

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さらに川筋の山肌には水抜通風穴跡が見られ、この辺りが鉱山であったことを感じさせる。
台所間歩や瓢箪間歩の近くには、小さな間歩の穴も見かけられた。
この辺りの鉱脈が地表に現われている大露頭の前で解散となった。

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時期的に寒い中での見学であったが日差しもあり、前田先生の案内で銀山地区の主な遺跡を楽しく探訪することができた。
昭和63年3月に建てられた銀山案内図の「案内板」に「・・・特に江戸時代には代官所が置かれ戸数は約3000戸を数える賑わいを見せていたが現在は20戸の静かな集落となり・・・」とあった。
絵図から銀山三千件と称された当時の賑わいと、現在の静かな集落との対比は鉱山の盛衰を思わせる。
鉱山を採掘した人々の中には免許を持つ専門の人もいたが、粉塵などのために30歳位の寿命の者が多くいたことを思うと、当時の労働の過酷さに思いをはせながらの見学でもあった。
校外授業は終了し解散となったが、先生の勧めもあり、ほぼ全員が「野中古墳と倭の五王の時代」の企画展が開催されている大阪大学総合学術博物館(石橋)に向かった。

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野中古墳は古市古墳群のなかにあって出土資料が質・量ともに充実した古墳であり、今回は保存修復された鉄製甲冑の展示がメインであった。
修復された甲冑の形が素晴らしく、又、その量の多さに驚いた。
予想以上に素晴らしい企画展であったと思う。
充実した校外学習の一日であった。

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1月31日 住友銅吹所跡地から背割り下水

2014.02.04.17:00

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住友銅吹所跡地は中央区島之内にあって、現在は「三井住友銀行大阪事務センター」となっている。
ビル壁面には銅の製法等がパネル展示されているが、退色して見難いだけでなく、これといった注釈もなく、甚ださびしいものであった。
住友財閥の源流と考えれば、「これは一体何???」といった思いが強く、もう少しやりようがあるのではないかと感じた。
先生の丁寧な説明で、その当時の状況等は理解出来たが、観光資源的に見れば価値は無い気がする。
ただ、往時の名残は無いものの、東横堀川と長堀川(埋め立てられている。)に隣接しており、立地の良さはよく分かった。
2月7日に「多田銀銅山悠久の館」の見学があり、銅の製法等の勉強は、これに期待したいと思う。

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背割り下水は、改良されながらも実際に使用されており、その状況を地上に設置されている「のぞき窓」から見ることが出来たが、石積みの下水溝の中を下水が相当な速さで流れているのを見て少々驚いた。
日を改めて施設を見学してみたいと思う。

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1月17日三光神社から真田丸城跡、そして空堀商店街へ

2014.02.02.23:14

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JR玉造駅10時に集合、好天気のもと、大坂の陣ゆかりの地の探訪が始まった。
先ずは駅近くにある三光神社である。
三光神社は宰相山公園(真田山)に鎮座し、天照大神・月読尊(つきよみのみこと)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀っているが、日本全国で唯一の中風除けの神として広く知られている。

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この地に大坂城の出城があったことから、社殿の下には「真田の抜け穴」と呼ばれる地下道があり、本城まで繋がっていたと伝えられている。
抜け穴の入り口横には陣中指揮姿の「真田幸村」の銅像が立っているが、その台座の石は信州上田の真田家の菩提寺である長谷寺より取り出した石(名付けて真田石)が置かれている。

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次に真田丸跡地に向かった。
大坂城は西に瀬戸内海、北に天満川、淀川、東に大和側の支流があって防御し易く、南のみが陸続きであったため、唯一の弱点であった。
その防御のために造られたのが出城、真田丸であり、空堀であった。
何れも自然の地形を巧みに利用して作ったとされているが、ビル群の中にあっては中々分り難いものの、先生の説明を聞き、その地に立って周囲を眺めてみると、よく理解出来た。
真田丸の中心地は「明星高校の敷地内」にあるとされているため見学は出来なかったが、道路を挟んで立つ「心眼寺」も大阪冬の陣の大坂城出丸城郭跡であり、真田幸村、大助父子の供養のために真田家の祖先滋野氏が江戸時代に建てた寺として有名であり、又、その門前には六文銭を刻んだ「真田幸村出丸城跡」の碑があった。
高地であり、眺望も利くため出城として相応しい場所であることが実感出来た。

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次に空堀を埋めた跡地として今に残る「空堀商店街」に向かった。
空堀も真田丸同様、自然の地形を利用したものであるとの説明であったが、実感としては分かり難かった。
ただ、近くの公園に立ち周囲を見渡しながら先生の説明を聞いていると、何となくそんな気がしてきたのが、正直なところかもしれない。
空堀商店街のアーケードにぶら下がった垂れ幕には「空堀周辺は大阪市内の最高位、ちなみに大丸心斎橋店5階に相当します。」とあった。
商店街の中であり、坂道のみが見えるだけで、実感が伴わなかったが、往時には素晴らしい眺めがあったのであろう。
やはり、戦の防御施設としては優れたものであったのだと思われた。

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大坂城に大阪冬と夏の陣、多くの事柄が喧伝され、又、物語が創作されてきた。
その名前にはロマン漂う響きがあるが、現存するのは昭和の時代の大阪城のみ、これといった著名なものは他には無い。
しかし、名残すら留めない市内であっても、視点を変えてみれば色々な発見がある楽しさを知った、楽しい探訪であったと思う。
私たちの入ったレストランの地階部分に大坂城の石垣と思しき壁面があった。
本物では無く、石垣の石を運び造ったものらしい。
思わず手に触れたが、大阪市民の心情が分かるような気がした。

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プロフィール

わかものたち

Author:わかものたち
私達(高大)「.大阪の歴史遺産探訪科」で学んでいます。学んだ事や、どうすれば成果が上がるか?毎日をどう楽しく過ごしているかをブログの中でコミュニケーションをとりながら、すすめていきます。

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